きくち なるよし▶1963年千葉県生まれ。大学中退後1984年音楽学校メーザー・ハウスの第1期生として入学。在学中に横須賀米軍キャンプのライブでプロデビューしサックス科卒業。プレイヤーとしてユニット「SPANK HAPPY」をはじめスタジオミュージシャン、サウンドプロデュース、ラジオパーソナリティー、文筆家として活躍。2002年よりジャズサックスと音楽理論を教える私塾「ペンギン音楽大学」主宰。東京藝術大学や慶應義塾大学でも講義。宇多田ヒカル、JUJU、東京スカパラダイスオーケストラなどアルバム参加も多数。
映画監督、クラシック奏者、コピーライター
迷走を続けた進路もジャズ音楽学校で才能開花
地元電器店で初めて聴いた本格オーディオの音に感動
中学生の頃は映画監督になりたくて、高校の入学祝いに高価だった8ミリカメラを買ってもらう約束をしました。ところが訪れた電器店で初めて触れたオーディオコンポの、ヘッドフォンから聴こえた音の良さに衝撃を受け、結局ステレオを買ってもらいました。レコードを聞き、FM ラジオのエアチェック(好きな音楽番組をカセットテープに録音)やジャズ喫茶にも通い、音楽にのめりこむ毎日が始まりました。
揺れ動くティーンエイジの心
ジャズの神様に導かれ専門校へ
当時は高校のブラスバンド部でファゴットやトランペットを演奏し、市の交響楽団にも参加していました。皆にほめられるほどの腕前で、プロをめざしてクラシックのファゴット奏者の先生に個人レッスンを受けるなど、本格的に芸大音大受験の準備を進めていました。ところが、当時ブームだったコピーライターという職業に心を奪われ、広告会社に就職したいと音大から文学部受験に進路変更し県内の大学へ進学したものの、入学直後のオリエンテーションで馴染めず体調を崩して退学。実家に戻って家業(和食料理店)を継がされそうになりました。回避するべく焦っていた時に手にした雑誌「JAZZLIFE」に「プロミュージシャンによるジャズ音楽学校開校」の広告を見つけ、心が揺さぶられました。自分にとってはこれまで聴く音楽だったジャズをやってみたい、ここに行くしかない、という思いが沸いたのです。ファゴットはクラシックの楽器のため、新たにサキソフォンに挑戦しようと、当時から小説家として活躍していた兄(菊地秀行さん)に初めて楽器の購入資金をねだり、「スタジオミュージシャンになりたい」と父を説得して、晴れて音楽学校メーザー・ハウスの第1期生として入学しました。
すべてが楽しい学校生活
2 年生でプロデビュー
メーザー・ハウスでは本科のサックスのほか、音楽理論、楽典を学ぶために副科のピアノが必修でした。ファゴットの素地が幸いしてサックスは容易く、ほぼ独学で演奏できるようになりました。本科の授業はコンサートツアーなどでたびたび休講したものの、人気のトップミュージシャンによる講義はおもしろく、音楽理論はジャズの魅力のタネ明かしのようで興味深く、副科のピアノは休まず出席して練習しました。水を得た魚のように毎日が楽しくて、再び音楽にのめりこむ日々だったことを覚えています。1年修了時に学校から表彰されるほど、初めて「勉強熱心な学生」になりました。
2年生のとき、学校から異例の仕事あっせんがあり、これがプロミュージシャンとしてのデビューとなりました。米軍基地を回るバンドの欠員補充として、横須賀キャンプのステージで演奏する仕事でした。当日のことは早朝(深夜)に横須賀駅集合から厳しいボディチェック、リハーサル、昼夜2回ステージ、打ち上げを経て終電で帰宅したことまで、何もかも鮮明に覚えています。初めて受け取ったギャラは15,000円でした。
メーザー・ハウスへは本科卒業後、専攻科を含めて5~6年通いました。ジャズプレイヤーとしての基本をしっかりと身に付けることができ、本当に良かったと思います。
ジャズ・ポップス理論開講で私塾生徒数は10倍に
ジャズミュージシャンは、自宅や貸スタジオで個人レッスンを行っている人も少なくありません。2002年ごろからは私も「ジャズサックスを教えます」と募ったところ、10名の生徒が集まりました。これが私塾「ペンギン音楽大学」の始まりです。特にジャズ・ポップスの音楽理論の講座を開いたところ、生徒が10倍になりました。メーザー・ハウスで学んだ佐藤允彦先生の教科書を、自分なりに工夫し"菊地式"の音楽理論を教えています。サックスを教えるコースを含め生徒は今でも増え続け、今日に至っています。